「ゆとり教育」の誤解を解く!

~「ゆとり教育」の理想は高く,今も続いている~


若者の悪口になってしまった「ゆとり教育」,「最近の若いものは…」と同じ意味で無神経に使う世代がおり,言われる世代には非常に不幸なことです.

公立学校で,いわゆる「ゆとり教育」が行われていたのは,1980年度から2009年度.
戦後からだんだんエスカレートしてきた極端な知識偏重,詰め込み教育により,学校での非行増大,落ちこぼれ問題,大学受験加熱,考えない学習が生じたという世論がさかんになります.
それを受けて当時の政府が問題視し,文科省が段階的に小学校中学校の学習内容を減らしていきました.
たしかに1980年中ごろまでの教科書では,今であれば中学校の内容が,小学校高学年に掲載されており,なかなかびっくりします.
昔は,早い段階で覚えれば覚えるほどいいと考えられてたのかもしれません.

さて,「脱」知識偏重は逆にだんだんエスカレートしていきまして,いわゆる「ゆとり教育」が極端だったのは2002年度から2005年度といわれています.
この極端だった期間は,2019年度でいうと20代後半から30才すぎの人が当てはまりますね.
(あれ?世間ではもう少し幅広く使われている気もしますが)

さてこのブログで「ゆとり」を「いわゆる」と言っているのは,それがマスコミなどを中心に使われた「悪口」で,本来の意図からはずれてしまったからです.
当時は新聞やテレビニュースで,
「円周率は3.14でなく3でもよい」
「イオンすら学ばない」
などという内容がことさら取り上げられました.

知識・理解という面では削減しすぎてしまった感があり,学校の先生にも不評でした.
このとき文科省は,「疑問をもつ」ことが大切といっておきながら,むしろ「なぜ」という原理を教えられずに覚えるだけになってしまった内容もあったりしまして.
「これだから”ゆとり”は」と,若い世代を傷つける人たちは,このときのメディアの印象をもとにしているのでしょう.

いわゆる「ゆとり教育」の期間で,本当に学力が低下したのかの明確な証拠はないといわれています.
脱「ゆとり教育」の大きなきっかけとなった国際調査(3年に一度,OECD加盟国の中学校3年生を対象に,読解力,数学的リテラシー,科学的リテラシーの3つの分野で,能力をはかり,国際的な順位が公表されます)の順位低下も,多くの研究者の間で学力低下は意味しないと分析されています.

さて「ゆとり教育」の負の面ばかりが注目されますが,このとき大事な考えが提示されました.
それが「生きる力」「総合的な学習の時間」です.
「ゆとり教育」とは,知識偏重ではない,次に必要な力を取り入れる先進的な理想があったのです.

つまり,
・これからの時代,知識を再生するだけでなく,自ら考えて自ら行動する「生きる力」が大事になる.
・これからの時代,知識だけもっていても,パソコンのデータ容量の発達などにより役に立たなくなる恐れがある.
・これからの時代,自ら疑問をもち,協力して調べ,それをまとめて発信する力が重要になる.
(・これに力を入れるためには,詰め込みを削減して時間を確保するしかない)

こうした考えが下地になっていました.
ちなみに今の時代にぴったりですね.ビジネスシーンでは,もうこれしか行われていません.

そして当時の「総合的な学習の時間」は,これを実践するためにもうけられた授業時間でした.
児童生徒が,自ら課題を設定し,協力して調べ,それをレポートにまとめたりプレゼンしたりするための時間だったのです.
(余談ですが,今人気の公立中高一貫校は,この生きる力,自ら調べまとめる力を実践する学校として設置された経緯もあります.だから試験で大量に読ませて,大量に書かせる傾向があります)

ただし,このすばらしい「総合的な学習の時間(総合の時間)」は,理想のように実践されませんでした.
正確には,指導要領をつくった当時の関係者や文科省に大きな誤算がありました.

児童生徒が自ら課題を設定する,といっても普通の子はできません.
子どもたちが設定した課題は,そのままでは調べて解決できる形になりません.
「総合の時間」の本来の目標は,いわゆる「自由研究」に近く,学校の先生は面倒をみる時間もなければ,テーマを準備してまとめるところまでもっていくノウハウもありません.
「生きる力」「総合の時間」の理想は,分かる人は実践しようとしていたのですが,学校の先生の多くが十分に納得はしていませんでした.

「総合の時間」は,目的もなく学級活動,社会見学するだけの時間となり下がり,「ゆとり教育」とあいまって,大変な批判をあびることになりました.

理想は高かったのですが,現場の運用に耐えられなかったのです.どんな組織にもよくありますね.国の政策としては,ゆるされませんが…

しかし,「考える力」の重要性は,脈々と学校教育の指針たる指導要領に受け継がれています.
それは当然のことで,指導要領は10年後の世界を見通して有識者がつくります.
声の大きい人の意見が通ったり,たまたまその時代の大御所になった人の意見が多分に反映されるきらいはあります.しかし,国際的な人材育成論が下地になり,可能な限り「日本がどのような人を育てて生き残っていくか」を考慮してつくられます.

それから10年以上たち,社会は変わりました.

・インターネット検索で驚くべき多様な知識が一瞬で手に入る,昔ほど暗記している知識が貴重でなくなった社会
・むしろ,多様な知識を組み合わせ,考え,新たな価値を作っていかなければ仕事ができない社会
・多様な人達との対立が生じ,権威も正解もない中で,自ら考え,その場その時の最善をつくさなければいけない社会
・つまり,昔ほど安定していない,先が見えない社会

このような社会ををどう生き抜いていくか,その社会と関わって個人がどうよりよい人生にするか
という意味では
「生きる力」と「総合の時間」の意義自体は重要なままなのです.
さらに重要になっていくのです.

脱ゆとり教育に転換して,学習内容がたっぷり増えた指導要領が実施されたのが,2009年度から2019年度まで.
このときは,世論を受けて「知識の復活」が目玉になりましたが,同時に「考える力」の重要性は,指導要領のあちこちにちりばめられていました.

そして,2018年に公表された指導要領では,学習する知識量はそのままに,「考える力(思考力・判断力・表現力という表現に置き換わってます)」に注力された形になっています.
知識量が変えられないのは,指導要領作成に関わる有識者や文科省にとって,いたしかたありません.もし削減でもすれば,また「ゆとり」と世論にたたかれます.(実際に,今回の指導要領で「考える力」を重視するニュアンスに対し,マスコミが異議を示しました.時々不思議なのですが,批判的に捉えるのはもっともとして,とりあえず攻撃するために攻撃しているの?と思うことがあります)

もちろん知識がなければものを考えられません.その意味では知識はいつも重要です.
ただし,ここまで不安定な先が見えない社会になることが明らかな今,工業的な大量生産時代に大成功した「知識偏重モデル」を引きずっていては失敗することはあきらかです(すでに日本はだいぶ失敗していますが).
2020年度からの大学入試改革も,同じ方向の議論です.

こうして,いわゆる「ゆとり教育」から生まれた「考える力」を育てる教育は,紆余曲折ありながら,2020年度からの学校教育の骨子となります.
そろそろ「ゆとり世代」も,お子さんもつようになりました.すぐに,塾をどうするか,中学受験をどうするか,悩むようになるでしょう.
しかし世間の評価に不安になることはありません.「ゆとり,ゆとり」とよばれているのは幻想です.みなさんは,これからの教育に通じる「先駆け」となった,自ら考えるすばらしい世代であることに自信を持ってください.